今日は、
Anglo-Japanese Symposium on Criminal
Justice and Corrections
龍谷大学矯正・保護研究センター主催
に参加していた。
昨日まで一週間、「生の事件」に追いまくられていたので、いきなり
アカデミックな世界に逆戻り。
基調講演は、米国法社会学会の重鎮であり、世界的な法社会学者
である、カリフォルニア大学の
Malcolm Feeley教授。
"Three Hypotheses about Crime Development in Japan
and the West"
と題して、犯罪統計上、日本は減少傾向にあるにもかかわらず
治安への不安が増加しているという背景分析を試みる。
政治学の理論で使われる「Strong Democratic State」と「Weak
Democratic State」を対比させ、民主的介入を排除し、政府の強い
統制を機軸とする日本(前者)と、民主的な介入の要素の強い米国(
後者)を描き、現在の日本の被害者保護運動は長期的には、さほど
大きな影響はない、という観測を示された。
これに対して、管理人は、フロアからコメントを出し、日本の現在の
法状況は、明らかに全体状況の規制緩和論の影響を受け、「司法制度
における規制緩和」、すなわち民主的介入を受け入れており、
①被害者による法廷での直接の尋問権の保障、②裁判員という市民
が量刑過程に入ることで、被害者が「エージェント」を獲得する可能性
が出てきたこと、③検察審査会の議決に拘束力が認められるように
なること、などから、長期的には被害者保護運動の影響は避けられ
ない、という反対意見を述べた。
Feeley教授は、たしかに日本でも規制緩和が部分的に進んでいて、
それが影響を持ちうることは否定できない、と管理人の見解に理解を
示された。
この論争のインプリケーションは何だろう。
第一は、依然として海外の法社会学の研究者において、日本の規制
緩和や司法改革は、意思形成過程や判断形成過程が官僚の支配に
あるという歴史を、変えていない、また、変えることはない、と捉え
られているということである。
第二は、被害者保護運動が、実は、権利獲得運動という「当事者の
狙い」を越えて、penal populism(刑罰至上の大衆主義)という
潜在的支持者を動員することに成功し、日本の刑事司法制度が
持っていた、「教育刑思想」や「矯正重視思想」を急激に破壊
しかねない、そうした契機になっていることが見過ごされている点
である。
特に、今日の日本の被害者保護運動が、格差社会の登場
およびその固定化という状況と同時代的であることが、そうした
変化を加速化させるのではないか。
今日、Feeley教授は、米国の刑事司法を真似て欲しくない、と最後に
希望を述べて締めくくられた。「持つ者と持たざる者」との格差があまり
に広がりすぎ、極端な武器保有権を許容した社会である米国は、刑事
政策的観点からも、公共政策的観点からも、お世辞にもモデルにすべ
きではない。 だが、今の日本は残念なことに教授の懸念される方向に
進みつつある。