落合弁護士のブログで、日本の刑事司法において「反省」が重視されて
きた(量刑面での)実務について、次のような説明がなされている。
罪を認め反省し二度と犯罪を犯さないと誓っているかどうか、といったことが、
人々の共通認識として重視され、刑事裁判にも持ち込まれて現在に至っている
のではないか
この反省の重視というのは、ただ公判段階だけではなく、
刑事司法手続全般で重視されている要素であろう。
警察段階では、「始末書」や「説教」で裁量的に犯罪化され
ない場合が少なくないが、その場合は、本人が反省して
いることが大前提だろう。
取調べ段階では、単なる自白の獲得だけではなく、反省の
情が盛り込まれるかどうかで、証拠として採用された場合、
検察官の求刑や裁判官の量刑心証に影響を与えることも
あるだろう。
反省の情が強ければ、検察官の起訴の方針に影響も
与えるだろう。
では、この反省が日本の専売特許かというと、そういうこと
はない。
丁度、来日中の(先週末は一橋大学で、昨日は日弁連で
講演された)ミズーリ大学のロドニー・アップホフ教授を
今夜、京都で囲む会があったのだが、公判審理、量刑、
いずれの場合でも、被告人の「remorse(悔恨)」を
どう持ち出すか、という管理人の質問に、非常に難しい
問題で、被告人のキャラクターによっては逆効果になる
ことも少なくない、その場合は弁護人が代弁したほうが
いい。だが、劇的な効果を生む場合もあるので、慎重に
判断する必要がある。それには被告人とどれくらい時間
を過ごせるかが鍵、と応えられた。
教授は、オクラホマ連邦ビル爆破事件の州の裁判で
死刑回避に成功した弁護人として知られ、公判弁論や
法曹倫理のプロなのだが、同事件では、被告人の房に
入り、4時間以上も議論したことがある、と言っておられ
た。どの事件でも同じように出来るわけではない、とも。
管理人の翻訳した『極刑』の中でも最も心が温まる箇所
は、おそらく、トゥローが弁護をしたある被告人が量刑
ヒアリングで示した、被害者への態度を描いた部分であ
ろう。 だが、米国でこうした被疑者の感情や態度が、警
察段階や検察段階については日本ほど重視されていな
い印象が強い。